2009年7月22日 トカラ列島を中心に皆既日食が起こり、日本全国でも大きな部分日食が見られ、
大きな日食ブームが巻き起こった。皆既帯を含む県内各所は天候が悪く、一部始終を見られた
ところは少なかったが、鹿児島市で95%を越える日食があるのは160年ぶりのことであった。
160年前の日食というのは、食分97.7%の金環日食で、鹿児島県本土を含む九州の南半分がすっ
ぽりと金環帯に収まっていたもので、篤姫も13歳のころに見たと思われる。
私が会長を務めた皆既日食鹿児島実行委員会は、各地から多数の来訪者がある2009年7月に、
鹿児島市のドルフィンポートに「鹿児島日食館」を開設した(現在は終了)。
日食館をはじめ様々の博物館等では、江戸時代から日食や月食の天体現象を、高い精度で
予測することができた薩摩の宇宙・科学技術について展示を行った。薩摩の高度な技術の一部
をここで紹介したい。
天文研究の歴史PRを
まず注目すべき人物が、島津家25代当主の重豪(1745〜1833年)である。重豪は、西洋の文物 に強い関心を示して蘭学(らんがく)を学んだ。藩内の若者を育成するための造士館(鹿児島大学 の前身)、医学院、演武館、明時館の4施設をつくり、薩摩藩内の開化政策を進めた。 1779(安永8)年創立の明時館では、星の動きを監察し独自の暦「薩摩暦」を編さんした。幕府 以外に暦をつくることが許されたのは薩摩だけだ。辺境にあり暦の入手が難しく、修正も必要だっ たことなどから特別に許されたといわれる。また、中国の暦に似た要素が多く、琉球貿易の影響も あるとされている。
19世紀前半作といわれる天保年間鹿児島城下絵図
に描かれた天文館(明時館)付近の部分図
=鹿児島市立美術館蔵「明時館」の復元模型
鹿児島市の繁華街「天文館」は「明時館」が由来となっている
=うなぎの末よし 所蔵明時館の広さは632坪(約2088平方メートル)。天保年間鹿児島城下絵図によると、数棟の建物 と観測用と思われるドーム状(アーチ屋根)の建物があり、傍らに高い旗を立て、子午線を通過す る時刻を測り、季節の移り変わりを調べた。ドーム状の建物は革新的で、現在の国立天文台の自動 光電子午環棟の建物に類似している。昨年、明時館跡地にある「うなぎの末よし」店内に設置した 復元模型は、私が構造を推測した。
薩摩藩は明時館設立前から、暦官を幕府の天文方(国立天文台の前身)に派遣し、暦術。暦算を 伝授されていた。目を注ぎたいのは江戸中期の磯永孫四郎(1765年没)の日食にかかわる仕事である。 小根占(現南大隅町)出身で、天文方で学び帰国後、薩摩暦の編さんに従事した。
磯永は63(宝暦13)年9月1日=当時の暦の日付=に「4分(40%)」の部分食が起こることを予言 した。この日食を3分以下とみた天文方は当時の「宝暦暦」に載せなかった。当時の習慣では3分 以下の部分食は暦に記載しなかったからというのが理由だが、私はこれは天文方の言い訳だと考える。 実際には「5分」が欠け、天文方は面目を失い「修正宝暦暦」が作られた。
このとき磯永のほかにも京都や豊後の学者3人が「4・5分」や「5分」と推算していた。現在 のようにコンピュータがあれば簡単な日食の予測も、当時のそろばんを用いた和算では大変な仕事 であっただろう。磯永は優秀な物理学者、数学者といえよう。磯永については、日食館でも漫画で 紹介した。
私の研究室はVERA望遠鏡をはじめ1メートル赤外望遠鏡、6メートル電波望遠鏡を運営し、 国立天文台と協力して、世界で初めて天の川銀河の宇宙地図作りのプロジェクトを進めている。 明時館の歴史を持ち、現在では種子島と内之浦のJAXA宇宙基地などがある鹿児島を現在、過去、 未来をつなぐ「天文・宇宙県」として県内外の人々に大いにPRしたい。
* (参考文献 渡邊敏夫著「日本の暦」、芳即正著「島津重豪」、唐鎌祐祥著「天文館の歴史」など)寄稿/面高俊宏(おもだか・としひろ)氏
1947年鹿児島市生まれ。名古屋大大学院理学研究科修了。鹿児島大学理学部長、同理事を歴任。皆既日食鹿児島実行委員会長。南日本新聞 2009年(平成21年) 7月8日 に掲載の記事を元に編集
ホームへ戻る | 金環日食メニューへ戻る |